
1966年11月12日。アメリカ ウエストバージニア州レンデニンの墓地で、5人の男性が大きな鳥のような生物が飛ぶのを目撃。ライトで照らしだされたその生物は、鳥ではなかった。
この夜を皮切りにポイント・プレザント周辺では、巨大な翼を持った赤い目の怪物が頻繁に目撃されるようになった。事態は郡の裁判所で記者会見が開かれるまでに発展し、怪物はUMA(未確認動物)「モスマン(蛾男)」と呼ばれるようになった。
モスマンを目撃した人の話を総合すると、体長は約2m。灰色の毛に覆われ、腕のかわりに大きな翼を持つ。その翼をはばたかせる事なく自動車よりも速く飛行する。頭部はなく、胸のあたりに目が赤く輝き、目と目の間隔が大きく開いている。 「キィキィ」という鳴き声を発するという―
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昨日のこと
帰りの電車、東上線から武蔵野線に乗り継いだ俺はドアのそばに立ち効きすぎた冷房を感じながら外を見ていた。
……と次の駅 開く扉、乗り降りする乗客に紛れて茶色の大きな“蛾”が車両の中に飛んできた。同時に乗って来た二人の少年はその“蛾”を気味悪がり、追い払うように手や足を振り回した。
社内に緊張が走った。自分のところに“蛾”が来ないという保証はどこにもなかった。
俺もまた緊張しながら“蛾”の行方を目で追った。
[0回]
“蛾”は高度を落とし床付近まで下りてくると、一人の男のふくらはぎに停まった。
―その男、年の頃は30代前半だろうか、短く刈り込まれた髪の毛に精悍な顔つき。
赤黒く日焼けした全身がスポーツマンらしく、全身の鋭さがスペードの“ジャック”をほうふつさせる男だった。
スマートフォンの麻雀ゲームに夢中で“蛾”が侵入してきたことも、それがハーフパンツからむきだしの
自分のふくらはぎに停まったことなど、全く気が付いていない様子だった。
二人の少年はその位置に“蛾”を追いこんだことをとっさに悪びれて固まったが、それを言葉に出せず最後には沈黙した。
一体このスペードのジャックの様な男になんて説明すればいいのだろう……
やがて二人の少年は“蛾”を意識の外に追いやって談笑を始めた。
車内は“蛾”を意識しまいとする人、“蛾”の次の行動に気を取られて男のふくらはぎに注目する人、最初から事の顛末にまったく関知していなかった人の3種に別れた。
俺はその男のふくらはぎから目をそらせなかった。
無駄のない筋肉に引き締まったふくらはぎ、そしてそこにぴったりジャストフィットして触角を小刻みに揺らす“蛾”
なんともいえない空気が車両を満たしていた。
最初の大きな緊張は武蔵野線「新秋津駅」だった。乗り降りの客は多く、このスペードのジャックの様な男も降りるかもしれない。彼が大きく動けば、“蛾”は再び飛び立ってどこに来るかわからない。
よしんば彼がこの駅で降りなくとも、乗り降りの客の動きに大きく環境の変化を感じ取った“蛾”は再び飛び出すかもしれない。
多くの人間が彼と“蛾”の動向に注目した。
「しんあきつ~」アナウンスとともにめまぐるしく多くの客が乗り降りした。男は目の前に空いた座席に腰を下ろした。
「!!!!!」“蛾”はどうした??男のアクションから“蛾”が飛び立った様子はない。男も“蛾”に気付いた様子もない。
男のふくらはぎに停まっていた“蛾”はこのとき完全に俺の死角に入り、その様子をうかがい知る事は出来なかった。
とっさに自分のふくらはぎを見た。
奴に起きたことが俺に起こらないとは限らない。
だがその不安は徒労だった。ダイエットをしているとはいえ未だだらしなく膨らんだ自分の妙に白いふらはぎが車両の明かりにさらされているばかりだった。
結論からすれば「”蛾”はあの男のふくらはぎにまだ停まったまま」ということだろう。
あの男が陰陽師だとすれば“蛾”を使役しているんじゃないかとも思えた。
いや、ここまでくれば“蛾”はあの男と「一体化」していると見るのが妥当だろう。
もしかしたら“蛾”こそがあの男の本体なんじゃないのか?
そんな疑惑すら俺は持ち始めた。
その男「モスマン(蛾男)」は麻雀ゲームでハネマンでも振り込んだか、はたまた国士でもテンパったか、小刻みに貧乏ゆすりを始めた。
それでも一向に“蛾”が飛び立つ様子は見られない。当然だ、…と今となっては思う。
なぜなら奴は「モスマン」“人間”と“蛾”が遺伝子レベルで深く結合したまったく新しい生命体なのだから。
貧乏ゆすりどころか遠心分離機にかけてもこの「モスマン」を分けることはできないだろう。
―やがて武蔵野線は「西国分寺」に到着した。
俺も降りねばならない。
電車を降りた。 振り返った。
「モスマン」も降りてくる。
その背後……ついにあの“蛾”が飛び上がった。
多くの乗客が降りていくなか、その頭上を
ゆるやかな羽ばたきで高度を上げ、幻想のように夜空に消えていった。
<完>
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